「駄文」。拙者の綴る文を示す。日記とも異なる内容をここに扱う。

2002/10/23 WED 『男友達』

 弟が生まれたのは梅雨入り間もない6月のある日。夜になると一人泣きじゃくる習慣が絶えることなく、母、祖父を毎晩のように困らせていた当時4歳の僕だが、この日を境に不思議と夜泣きの兆しが消えたという。静岡県は熱海市の山間で過ごしていた幼少期、人との関わりが少なく、自ら交流を持ちかけることを最も苦手としていた僕に、一番近しい友、弟が誕生した。

 幼稚園に通うことが嫌で嫌で仕方がなかった。トイレに閉じこもり鍵を掛けた。布団にうずくまり顔も出さない。仮病はお手の物だった。本当に行きたくなかった。理由などはなく、人と関わること自体が大嫌いだった。

 他の人は外で野球やサッカーでもしていたのだろうか。僕はもっぱらLEGOブロック遊びにしか興味がなかった。作っては壊し、また作る。自分の時間のすべてを費やし、集めたその量は段ボール二箱分にも及ぶ。友達はいなくても、物作りの喜びを僕に教えてくれたのはLEGOだった。クリエイターという、今の仕事の原点にもなっている。

 小学校に上がってからも周りの友人らに馴染めず、依然として苦手意識は薄れぬまま卒業を迎えた。「あなたにとって一番仲の良いお友達の名前を書いてください」。クラス替えに伴って担任へ提出すべき書類にあった一文だ。悩みに悩んでから書いた名の彼は、家の目の前に住んでいた同級生だった。

 淡々とした性分の僕を真面目気質と見なし、中学校の先生から「生徒会会長になりなさい」と口が掛かる。気弱で人見知りする内情でも周囲には優等生と映るらしい。大いに困った。胃が痛い。失恋の苦しみ並だ。食事が喉で詰まりそうにもなった。断る勇気がなかった僕は、気付いたら全校生徒の前で毎朝、指揮を執る羽目になっていた。

 人生の転機は思わぬところで訪れる。任務の重さと人前に出ることの恥ずかしさ、苦しさから、辞任してしまいたいとさえ感じていた生徒会会長の任期3ヶ月目を過ぎた辺りのこと。朝礼台に立ってもそれまでとは違い心拍が穏やかであった。緊張から徐々に解放され、余裕が持てるようになるとアドリブが口を衝いて出るようになる。生徒の反応も気にするようになっていた。そして迎えた新入生歓迎会の当日、マイクを握り揚々とビートルズを歌いて歓迎の言葉を読み上げる僕が、全校生徒の前に立っていた。僕はこれを機に、変わってしまった。


 友人は多い。人前に出ることは好きだ。バカ騒ぎすることも、バカになることも好きだ。気が置けない仲間たちと酒を飲み明かすことは楽しい。長い付き合いができることが嬉しくてたまらない。恋人との別れのような終演が来ないから安心できる。だが辛い決別から学んだ深き友情も知っている。

 些細な一言が、唯一無比の大切な友達を運び去った。僕が悪かった。口が過ぎた。以来、犬猿もただならぬ仲となり、生徒会をしていた僕には常にプレシャーが、のしかかった。派閥とでも言おうか、リーダー的存在の彼は周囲を率いて僕を罵り、あざ笑う。毎日のように遊んだ過去の友達からの仕打ちは、痛く、重たかった。

 再び強い絆で2人の仲が修復されたのは、それから何年かの後だ。もしかすると一生すれ違ったままだったやも知れないと思うと、恐ろしくて堪らない。今ではお互いをリスペクトし合える最高の関係だ。

 「友達になってください」「友達になりましょう」。いずれもよく目にする文句だが、友達は作ろうとして出来るものではないはずだ。初対面の女性にいきなり「付き合ってください」と言っても、超イケメンでフェロモン出まくりの「ベッカム」ばり素質があれば別だろうが、大概にしてお断りされ、以降、彼女に近寄ろうものなら警戒モードに突入される。

 友達は恋人ではないけれども、その関係に遠からぬ側面もあるわけだ。前述の文句は分かり易い代わりに、浅い関係の前兆のようにも受け取れてしまう。そんな野暮ったいこと抜きにして、知らぬ間にイイ感じになっている間柄なら「友達になった」証拠だろう。まぁどうしても友達になりたくて仕方がない相手に、即効性のある言葉をぶつけるとすれば「友達になることを前提に関わってください」の一言だろう。言われた僕なら、おもしろそうなヤツだと感じ「それ前提に関わる」ような気がする。

 【ネッ友】( たった今思いついた僕の造語。もし既出でも突っ込みは抜きで)インターネット上の友達、或いはそこで培った友達関係の相手のこと。このサイトにも頻繁にちょっかいを出してくれる某氏を筆頭に、世界各地に張り巡らされたインターネット網の恩恵で知り合えた友達が幾人もいる。

 パソコンを立ち上げれば、いつものあいつがいるわけだ。悪くない。今更ながら驚きのご時世だ。家が離れた相手と何をするでもなく、お互いに部屋の空間をリアルタイム動画で共有して、ただ音楽を聴いたり本を読んだりしている。次の瞬間「ねぇ、あの映画のタイトルって何だっけ?」と、ハンズフリーマイクでありふれた会話をすれば、直に同じ時空を共にしていることと全く変わりがない。考えてみれば最近はネッ友との共有時間が一番多いようである。


 母親が昔よく言った。
「友達は財産よ」

 僕はこう望む。
「友達にとっての財産が僕でありたい」


2002/9/26 THU 『恋愛論みたいな感じ』

 お気づきかと思うが兼ねてからこのコーナー設置前は「GAME」という表題がそもそも入り口に掲げられていた。思えばかれこれ2ヶ月間も工事未着手のままこちらを放置していたわけだが、ようやく完成するや否や急遽タイトルは「駄文」に変更。これは全くもって僕の勝手な都合であり、存在有無はともかくとして密かにWeb Gameを期待されていた方々には軽くお詫び申します。

 複雑なプログラムを組んでいる時間をなかなか作れないのも理由の一つだが、時折なんでも私の駄文をお読みになりたいという珍しい方がいらっしゃり、その人数も数えるほどに達したので、気まぐれにより当コーナーを開設した次第。流行のテキスト系サイトとは全く趣を異にする至極地味な中身で、書いている本人もターゲットを予測できないことが特徴。

 「恋愛観について教えてください。是非そういうのを読んでみたいです。」と、何度かリクエストを頂いたので、語るに相応しき恋愛話をちょっと探ったが、どれもこれも取り扱うに至らない。……それはウソで、本音は正直恥ずかしい。近くは自分の親が、遠くはリマやアリゾナからも来訪履歴があるというのに、熱上げてとくとくと恋愛の御託を並べるのもおこがましいものだ。日本語を理解しているかは知る限りじゃないが、様々な人の目に触れるとなれば、やはり気が引ける。

 で、前説もこの程度にして『恋愛論』を語ります。(なんじゃそりゃ)

 「脚が細い女が(・∀・)イイ!!」、「胸はぜってぇーC!!」、「家が近くないと無理!」。……これらはいずれも友人の貴重な意見だが、まぁ分からないわけでもない。だがここでは表面的な好みは一側面として置いておいて、本質的な話をしたい。

 ギャル好きでしょー? と女の子に投げかけられることが、間々ある。「普通かなぁ」と曖昧な返事を戻すことがほとんどで、振り返っても、ギャル風袋の女の子といままで付き合ったことがない。「付き合う相手の傾向が似通っている」とは友人らに指摘されることだが、自分ではそうでもないと思う。曰く「背が小さくて控えめな性質の子が多い」そうだ。

 外見はよっぽど標準的センスから脱線していなければ、さほど気にはならないし、性格だってとてつもなく屈折していない限り問題だとは思わない。唯一僕が相手に期待することは、自分自身や家族を大切に思う気持ちが備わっているかどうか。他にも挙げればいくつかあるが、およそここに集約される。僕が好きになった女の子はみな、家族思いで自分自身をも大切にしていた。

 「私はこういう女性になりたい。だからずっと続けてこれを頑張る!」。ひたむきに、目指す将来に向かって努力する姿や、自分を磨くために何かを持続している、そんなタイプに僕は弱い。周りの環境変化や付き合いに流されずに「自分」を持っていて、コントロールができる。年齢などとは関係無しに強い意志を持っている女性が好きだ。自分を大切にできる人はだいたい、その性質を育んでくれた両親や家族をも思いやることができるようだ。また深い愛情を受けて育てられたからこそ、自然とそれに応えられる性格が築かれたのだろう。きっと母親になってからも、子供への愛情をたっぷりと注げるのではないかと思う。

 他人を尊重することが出来ない相手は男女を問わず苦手だ。せせこましい悪口や蔑みばかりで話題がいっぱいになってしまうような人とは一緒にいても心地よくない。そのぎすぎすとした人となりを見ていると、いかに愛情に飢えて生き長らえてきたかを哀れんでしまう。どんなに素敵に着飾っても、どんなに優美に振る舞っても、思いやりの心がない相手を好きにはなれない。

 自分が相手にどう映っているのか、どう思われているのかを気にすることがある。少しでもそう意識し始めたら、あれですよ。俗に言う「これって恋なの?」って現れ。女の子の中にはこの時期、食事も喉を通らない人が実際にいるようだが、僕は普通にもりもり食べます。だが不思議と恋の始まりよりも失恋したときの衝撃の方が遙かに大きく、もう愕然……。その痛みは食事が食道で止まり掛けるほどで、情けないが切実。恐らく同じような経験を持つ男が他にもいるはずで、下記のような定義が成り立つだろう。

 出会いの喜び:男<女  別れの苦しみ:男>女

 
生活に張り合いが出来るということも恋愛をする醍醐味だと思う。僕には彼女が今いないので時間の使い方は当然、自分を中心に考える。仮に彼女がいたとしても、暇さえあればとことんべったりという関係にはならない。先に触れたように、自分自身を大切にする相手が好きだ。それは自分の時間を、恋人と過ごすそれと同じくらい大切にすることをも意味する。生活の張り合いとは、それぞれ自分の時間で得たことを、二人の時間で再共有することであって、のんべんだらりとただ一緒にいるだけでは生まれてこない事柄だと経験から知り得た。

 かく言う自分がのんべんだらりと書き連ねてきた初回「駄文」だが、恣意的にこの辺で区切りたい。なんだか眠くなってきたので……。
 強引な結びですが、別れの来ない出会いを夢見て、床に就きます。